上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

光線の入射角

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昔からある金言に、歳とともに納得させられることがあるだろう。

「初心不可忘」「継続力也」等々、近日身を以て感じるばかりである。金言の金言足る所以とは、その実の無いことだろう。非常に柔軟な形式のみがある。占いと一緒だ。その実は万華鏡の若く光線の入射角に依って決まる。占いと金言はあらゆる角度からの光線をも受け入れ映像を表わす。

ここで金言について説教したいというわけではなくて、芸術(或いは人間)の実が形式に依って成っていることを、ふと関連的に夢想したにすぎない。

 

そもそも芸術の……人間の実とは何か、というようなことを考えるとすれば(これは非常にナンセンスだと思うが)、平たく言えば思想のようなものになる。そんな立派なものでなくとも、アイデンティティ(帰属意識)を保とうとするのはありふれたことだ。

大きく分けて二種類ある。まず現実に於ける社会的な帰属意識ーー仕事や家族など外的な帰属性を見出すもの。

もう一つは抽象的な帰属意識ーー宗教や主義など内的な帰属性を見出すもの。

思想は後者として扱われやすい。ニーチェに依れば20世紀以降はニヒリズムの時代と言われていた。宗教は相対的価値になり、是非を検討し、選択の結果得なければならないものになったが、これを俺は悲観していない。衰退したのは宗教ではなくナショナリズムだからだ。

そもそも宗教が衰退したと考えるのは進歩主義的で好ましくない。人類全体が、宗教より賢くなったかのようなニュアンスを含有しているじゃないか。俺達の眼前にある虚無はもっと程度の低いものだ。民族性を失い、地域性を失っただけのことだ。だからナショナリズムの崩壊と言っている。そもそも宗教は選択し得るものではない。与えられるものなのだ。ナショナリズムが崩壊すれば宗教は衰退せざるを得ないが宗教の価値自体が衰退したわけではないので、決してニーチェのせいではないし彼の著作は人類全体を賢くはしない。

要するに、抽象的帰属意識は思想として扱うべきとは言えない。それはある程度の社会性を含有して生まれるものであり、思想とはメタ抽象的帰属意識と俺は考える。

…… さあ。メタ抽象的帰属意識ーー思想を持つという困難さは明白だが、時代のせいではない。古来から変わらず困難なのだ。軽々しく思想、思想と喚くにはお前らは不十分すぎる。

 

人間、芸術と思想の関係性。

そもそもメタ抽象的帰属意識とは人間の認知能力の外にある。思想を知覚するのは不可能だが、そのイメージを夢想する能力は誰にでも備わっている。そして、芸術とは何か。絶対的価値に対して行われる人間の所作のことである。思想に対し人間は永遠の恋愛関係にある。

人間が思想のことを考えるというのは正しい表現ではない。恋うるのみだ。その苦悩、恍惚の全てを芸術と呼ぶ。その時、主体、相対の真実など些末なことに過ぎない。どうせ見えないのだから。真のニヒリストとは不能者であり、俺は違う。思想家でもない。この意味がわかったか。俺は恋愛者だ。

俺が芸術家として信奉する作家の多くは、その思想の髄に触れる折に詩の形態をとることがある。詩の芸術に於ける価値を議論するのは薄ら寒いことだ。恋愛者が詩うということほど自然なことはない。

 

…だいぶ話が遠くまできてしまったけれど読者諸君はこの記事が光線の入射角という導入だったのを覚えているだろうか?俺は忘れてた(白目)。長い文章を書くには突貫工事だったね。では、閑話休題

 

さて、芸術と人間の実を考えるナンセンスがわかっただろうと思う。幸いなことに俺達は個人である。どんなにありふれた人間であろうと、個人であることが幸いなのだ。それはつまり、限定的な視点しか与えられないという幸福である。真実は無形だが、それを恋うる者にとってその映像は一つである。

実を考えるナンセンス、とは言ったものの実がないというのは俺の意に反する。明らかに個人であることを実とするのは読者としても不満であるのは承知しているので安心してほしい。それは事後的に獲得可能だ。

唯一の入射角、唯一の映像だ。思想は。でなければそれを恋愛とは呼べないのである。恋愛になれば主体は問題ではない。対象も問題ではない。そして、行為の全ては芸術だが行為一つは芸術ではないのである。行為の全て ーーそれが芸術となった時に或る独特な形式に成る。形式それ自体が実になり、またあらゆる光を取り込み、乱反射する。芸術はかくして芸術になる。

俺達の目は限られた角度からのみ光を取り込める。それだけが個性と呼べる足がかりだ。