上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

実際的存在

お菓子の袋をまさぐって、愛らしく咀嚼する仕草や

真剣に漫画を読む表情

そこには一抹の不安もなく、平穏そのもののように思われる

どんな請求書の波も脅かすことのない平穏だった

 

 

時には憂鬱の中にいて

己を責める背中にかける言葉もなく

少ない優しさを分け与えられ、不甲斐なさを苦く噛む時

雨音も届かぬ地中に、浅く呼吸することしかできない

 

貪り合い、君の中で果てる時

呼吸や、音声があらゆる意味を失うと共に色味を帯びて迫ってくる

それをどう言い換えて良いのかいつもわからない

愛してるかなんてイデオロギーはいつもわからない

君は実際的な存在なのだ

黒いほのおの両の手が

空に向かって何度も何度も、伸び縮み

お月様はそれを見て笑っていました

 

ほのおは草も土塊も飲み込んで

やがて風を焦がし海を走った

お月様はそれを見て笑っていました

 

彼は疲れ果て路傍に佇み、怒号を放ちて

最後に私を焼いて消え去りました

お月様はそれを見て笑っていました

独白

胸の真ん中のあたりが疼いています。いてもたってもいられない苛立ちに、わあっと叫びたくなる衝動が、夜を奔走しているのです。とうに忘れたはずの哀しみが蘇って、それを投げ破ってしまいたい気持ちと、懐かしむ気持ちとを抱えてまた夜を越えました。それは私にとってある種の山々です。山越えの、朝です。荷を下ろしたいのはやまやまだけど、これを忘れてまた市井に出るかと思うとゾッとします。どんなに薄情で味気のない日々だろう。私は私の哀しみ抜きには、私を考えることがもうできはしません。それでも朝は私を、また知らない私へと変えていきます。それが判るあなただからこそ好きなのです。

どうせならいっそ薄情であれば良かった。薄情な振りをして、憂き身をやつしていれば、恋なんて簡単に忘れられるものだと知っています。そう努めていながら、簡単に忘れてしまえる人間を軽蔑しています。並大抵の恋は偽物です。浮気心です。浮気は、既に相手がいるかどうかが問題なのではなくて、生半可な好奇心を恋と換言することなんです。恋は血のスープです。それを一滴も飲まずして語るには値しません。

何一つ行為せず、大酒喰らい共に天才、天才と囃されていい気になっているアンポンタンは、彼らを見下しながらも、その優しさに救われていることに気づきました。最近は親も優しくて、私も親に優しいので、まるで無防備になったところに貴方の影が入り込んだのかも知れません。また貴方を忘れて朝を迎えましょう。さようなら。

少年は空を見ない

俺が英語を担当している生徒の、数学を担当している先生が憤っていた。「英語13点ですよ。しかも空欄だらけで、記号問題さえ書いていない。やる気を感じない。」云々。「まあ、ねえ。」と濁していたが、努力すれば半分、いや、80点だって取れるんです。高校入試ってのはそういうもんなんです。などと、いよいよ昂ぶっていらして、俺は俺でその考え方に水を差してやりたくなり、少し懲らしめてやった。得てしてこの業界、こういった上昇志向というか、進歩主義とまでは言わないだろうが、一定以下の学力は非人間などと言いかねないような人がたまにいる。うるせーなあ。

少年からしてみれば、高校なんてどうでもいい。親だとか、俺たちが勝手に決めたレールに乗っけられているだけ。受験して、就職して、結婚して、子供が巣立ち、老いるという人生の筋書きは彼らには絶望感しか与えない。未来よか空でも見てる方がよっぽどマシだろう。いや、俺でさえ未来より空を見ていたいし、むしろ見るべきとさえ思う。

塾やめろ。時間がもったいない。遊べ、もっと遊べ。遊ぶ時間は勝ち取れ。

まだ未熟な頃生徒向かって投げた言葉。本気で辞めて欲しかったが、激励されたと勘違いするのか、辞める人はいないし、こういう言葉を言われる人間は大概、そこから頑張ることもしない。したとして、何か実を結んだとして、他人より突出することはまずない。それより俺が憤るのは、なんで空を見ないかということだ。アナーキズムがない。少年は空を見ない。

美しく生きろよ。社会と現実は別のものだ。常に此方は彼方、彼方は此方だ。好きな方を選べよ。飲みたくない薬は飲むな。反抗を目的にするな。アナーキズムの地平にお前の家を建てろよ。ああ、でもこれは、少年の頃の俺が見ていた夢だ。結局できの悪いやつには反抗さえできやしないのか。アナーキズムにも才が必要なのか。なるほど。笑えねえ。

ああ、そうか。堕落した人間は空を見ない。俺も空を見なくなった。俺は俺に憤っていたのか。

怪物の胃袋

嵐は猛り狂っていた。楽観して帰路に着いたものの、傘はすぐに無用になった。靴の中は水たまりになっていた。服が重い。目も開けるのも一苦労という、そんな夜だった。すぐ先のほうが全く見えず、絶えず稲妻の低音が唸り、数分おきに巨大な破裂音をあげていた。案外、雷で死ぬというのはあることなのかも知れないと考えながらコンビニで雨宿りしている人々を横目に通り過ぎていった。

道も半ばというところで、明らかに頭上が閃いた。赤い。赤い稲妻を初めて見た。なんとなく、ここで死ぬのかもしれないと夢見心地でそれに見惚れた。その煌めきも、唸りも、落雷の衝撃も、あまりの荘厳さに花火大会がちゃちに思えた。ほとんど神を見たような気がする。町中がただ神妙にこの夜を越えていることを想うと、審判を待つ罪人のように私もただ神妙にして何かを待っているような気がした。

自宅に着いて一息ついている間も、稲妻は低く唸り続けていた。町中が怪物の胃袋の中のような気がした。

芸術真髄

芸術とは詰まる所、なにであるのか。

これを問うたことのない人間には矢張り、生涯わからぬものであることは間違いない。衆愚である。しかしまた、衆愚を嗤う者もまた衆愚である。衆愚とは、時間が過去から未来へと流れ行くという近代意識の信者であるとともに、人間が継承し発展すべきという、近代意識そのものである。近代意識とはなにか。衆愚とはなにか。それは自然の産物であり、大いなる流れの、ほんの一部分に過ぎない。故に嗤うに値せず、嗤うこと即ち大いなる流れの一部分に過ぎない。彼らは真に愛すべき存在なのである。文明の発展が、人間の努力が、全て死を遠ざけるという一点に終始しているという事を発想せず、無限に向かって両手を広げる一般意志の、極めて自然な、風のような儚さでもって人間を歌う。

 

茶室。桃山時代という戦乱に於いて、利休の茶室は死と隣り合わせであった。一期一会とは、運命や自然、全ての偶然を必然として受諾する覚悟の言葉である。客人のために茶を点てるという、ただそれだけのことでさえ、死を眼前にすれば、忽ち人間を磨き、命を燃焼し、芸術へと昇華する。

天才の行いや考え、どういった発想であるかに着眼するのならば、辞めたほうがいい。何を為したか、何を考えたか、そんなことは天才自身でさえ決定することはできない。時代が要求した形に収まるというだけのことであって、彼らにはただ死を見つめたという共通項以外なんにも有りはしない。

 

僕たちには、生と、死、それ以外になんにも持たずに生まれ、なんにも持たずに死ぬということ以外、真実らしいことなど無いのだ。存在して、存在したことになり、そしていつか存在しなくなる。唯物論であろうが、観念論であろうが、死を眼前にすれば、これらもまた一元的に語られるべき真実の二面性に過ぎないことをただ悟るばかりである。僕らの存在もまた、一元的な真実の、生と死という二面性に翻弄されているに過ぎないということを悟るべし。

畢竟するに、世界は二元であり、真実は一元であるということを僕は言いたい。僕たちは二元を束ね一元的に語り真実とするのである。この所作を芸術と呼ぶ以外、ほかに適当な言葉があろうものか。死の中で暗中模索し、ようやく掴んだ手が、天使か悪魔かということでさえ、もはや何でもないことなのである。

風立ちぬ(Le vent se lève, il faut tenter de vivre)

風立ちぬ。こんな詩情に溢れた表現は滅多にないと呻吟していた。正しくは、「風立ちぬ。いざ生きめやも。」というヴァレリーの言(の堀辰雄訳)である。ちょいと調べてみると、「め」は推量、「やも」は反語の表現であり、元来の「さあ生きよう」というニュアンスから離れて「生きようか。いや。」という訳になっていて、有名な誤訳らしい。流石に堀の意訳だと思うが、どちらにせよ、美しい表現である。「風立ちぬ」とは、その動詞で持って主語を完全に修飾しきっている。そして、「生きよ」にせよ、「生きめやも」にせよ、やはり風の修飾語として機能する。フランス語はフランス語の美しさでもって響くのだろうが(Le vent se lève, il faut tenter de vivre. 読めない)、日本語は日本語の美しさでもって、響く。通底する文法の美は国境を越えるかも知れない。

これに負けじと様々に擬人法を凝らしてみたが、ダメだ。そもそも古語より美しい表現は、ない。「風が立った」では、弱い。弱々しい。「さあ生きよう」にまで繋がる気も起きない。マヌケみたいだ。古語はやはり簡潔なのだ。「風立ちぬ」の五音に対して六音では尻尾が出るし、促音がへばりついて、よろけきっている。さらに、「いざ」の訳は「さあ」なのが気に食わない。「いざ」の快活さに対して「さあ」は釣り合っていない。現代語訳は不可能であるし、断言するが、現代語ではこれに匹敵する表現は生まれ得ない。

現代語は、口語は、唯一その素直さを美徳とするが、まるで美に対して無頓着であり、着の身着のままである。この時代に生まれ落ちたという事実だけで怒髪、天に達しかねない。だからこそ、ああでもない、こうでもない、と小銭を探すようにうろついて、駄文を重ねていくことに、小説の本義があり、新たな地平を開く力があるのかもしれぬ。

 

与太話だが、ヴァレリーの力強い原詩を端として、死を見つめた堀辰雄に近年では宮崎駿と派生作品が多い。宮崎駿の「風立ちぬ」は酷評されても然るべきだとも思うが、あまり耳にしないので代わりにしてやろうと思ったりもするが、素直な感想としては特に言うことがない。強引な解釈をしたなあ、というくらいである。ジジイの腕力は恐ろしいものがある。結局、零戦が描きたいという天真爛漫な心だけがあった。