上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

風立ちぬ(Le vent se lève, il faut tenter de vivre)

風立ちぬ。こんな詩情に溢れた表現は滅多にないと呻吟していた。正しくは、「風立ちぬ。いざ生きめやも。」というヴァレリーの言(の堀辰雄訳)である。ちょいと調べてみると、「め」は推量、「やも」は反語の表現であり、元来の「さあ生きよう」というニュアンスから離れて「生きようか。いや。」という訳になっていて、有名な誤訳らしい。流石に堀の意訳だと思うが、どちらにせよ、美しい表現である。「風立ちぬ」とは、その動詞で持って主語を完全に修飾しきっている。そして、「生きよ」にせよ、「生きめやも」にせよ、やはり風の修飾語として機能する。フランス語はフランス語の美しさでもって響くのだろうが(Le vent se lève, il faut tenter de vivre. 読めない)、日本語は日本語の美しさでもって、響く。通底する文法の美は国境を越えるかも知れない。

これに負けじと様々に擬人法を凝らしてみたが、ダメだ。そもそも古語より美しい表現は、ない。「風が立った」では、弱い。弱々しい。「さあ生きよう」にまで繋がる気も起きない。マヌケみたいだ。古語はやはり簡潔なのだ。「風立ちぬ」の五音に対して六音では尻尾が出るし、促音がへばりついて、よろけきっている。さらに、「いざ」の訳は「さあ」なのが気に食わない。「いざ」の快活さに対して「さあ」は釣り合っていない。現代語訳は不可能であるし、断言するが、現代語ではこれに匹敵する表現は生まれ得ない。

現代語は、口語は、唯一その素直さを美徳とするが、まるで美に対して無頓着であり、着の身着のままである。この時代に生まれ落ちたという事実だけで怒髪、天に達しかねない。だからこそ、ああでもない、こうでもない、と小銭を探すようにうろついて、駄文を重ねていくことに、小説の本義があり、新たな地平を開く力があるのかもしれぬ。

 

与太話だが、ヴァレリーの力強い原詩を端として、死を見つめた堀辰雄に近年では宮崎駿と派生作品が多い。宮崎駿の「風立ちぬ」は酷評されても然るべきだとも思うが、あまり耳にしないので代わりにしてやろうと思ったりもするが、素直な感想としては特に言うことがない。強引な解釈をしたなあ、というくらいである。ジジイの腕力は恐ろしいものがある。結局、零戦が描きたいという天真爛漫な心だけがあった。