上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

ほとんど詩

インスピレーションはいつも、眠ろうとしたら急に降ってくるもの。と言いたいが、これは酒の勢いに任せたストレス解消かもしれない。

 

「観念の深度がそのまま作品の深度だが、そんなことはつゆとも考えず良い作品を書く人もいる。」と大体こんな具合の文章を読んだ。俺のことだと思った。そして俺が、幸か不幸か、太宰治に準ずる魂を持っていると評された。手元にあった「ヴィヨンの妻・桜桃」の短編集を捲った。

つまらなかった。後期太宰の良くも悪くも安定した文章は純なものが皆目無かった。よくできすぎていた。太宰を貶しているのではない。彼の文章の白眉は、俺が一番知っている。チョイスが悪いと言えばそれまでだ。

 

なんだか、これから自身が何をしでかそうとしているのか、わからなくなりそうになった。そしてこの一塊の、作家ならざる文豪の、世界を開帳する気持ちに至った。

 

 

雨上がりの白昼、水たまりで行水する雀を見たことがあるだろうか。一寸半程の身体を震わせて、飛沫を散らす一瞬に、貫く烈日、乱反射する光の中に立つ雀を見たことがあるだろうか。自転車で駆ける瞬間に飛び立つ黄金の、全ての調和の風景を。

 

黄昏を見つめる恋人の、心世に在らざることを知り、世に在らざる己とが、黄泉にて初めて邂逅しうることを知り、その喜びと切なさが、余りに途方も無いことを知ったとき、人事を失うことを知っているだろうか。

 

己の嘘を一つ一つ数え上げ、その度に皺を刻み、それでもなお嘘を重ねる愚鈍さを、ただ嘲笑うしかない人間のことを考えたことがあるだろうか。

 

或いは己も、世界の内にあるだろうか。

 

 

意味の無い瞬間を、永く覚えている。それしか書けない。心に留まったものしか書く気持ちにならない。或いは見たものしか書けないと思っていたが、こうして書いてみれば、それが何か得たいの知らない巨大なイメージになっているのを感じ取れた。それが収穫かな。お目汚し失礼した。