上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

ものを書く理由

塾講師として働き始めて早数ヶ月が経った。最初はただ目の前の仕事の新鮮さと面白さに夢中になっていたある日、塾長に「将来的に塾長になるの?」と言われた。

「や、そこまではまだ」と答えた。

しかしまあ、講師だと月収が雀の涙なので30代でアルバイトを掛け持ちしている講師も珍しくないこの業界でキャリアアップしていかなければならないのは至極当然なわけだ。しかし、だ。俺は細々とした事務作業が極端に嫌いなのだ。提出物なんかは締切当日に出せば良い方。そんな野郎である。講師としては非常に刺激的な仕事だし向いてるとも感じるから、あと10数年はやっていくつもりではある。でも、どうしたいんだろう。

 

初めて会って挨拶をし、着席してから教科書を広げる前のトーク。リハ無しぶっつけ本番、解説と同時に初見の問題に目を通しながら、淀みないようにトークで間を繋いで解説を始める。この90分間のパフォーマンスが非常にスリリングなわけで、受験というRPGをマクロな視点で楽しんでいるわけではなく、一つ一つの戦闘をミクロに楽しんでいる段階なわけだが、果たして段階だからなのか、俺の本義がそこにあるからなのか。

やっぱり楽しいのは手応えのある現代文の解説。論理で文章を解体し唯一の回答を暴いていくのは快感。脳汁ハンパない。同時に不快なのが、回答のほうが非論理的である場合。予備校生時代に問題文の誤り、不出来を指摘して講師に疎まれたことがある。挙句、「問題を作る人、解説する人で回答が変わることもあるから」なんて最低な発言を初老の講師に言わせてしまった。もはや現代文の存在意義が揺らぐじゃん……。数学のように絶対の回答がない問題は大学院で議論させておけばいい(数学においても絶対が存在しないことはしばしばある)。

語句というのは、どれだけ厳正に選んでも意味は多岐に渡る。例えばパレットに赤と青の絵の具を出して、水で滲ませる。すると境界が溶け合って、紫のグラデーションが出来上がる。そこに葵だとか、藤紫だとか、より厳密な紫色を限定していく。それが文章を解く、ということだ。

 

話が飛んだ。要するに、俺は専門職としてこの仕事が好きなんじゃないか?管理職は向いていないんじゃないか?という疑念があるわけだ。より高度な問題を紐解いていくショーがしたい、ただそれだけなんじゃないか……?

講師として食えるレベルの一流になる選択肢もあるが、最終学歴が高卒の俺では今の職場を辞めたら次はないだろう。しかし今の職場ではその道はあり得ない。そしたらキャリアアップせざるを得ない。うーん……管理職……。

教育がしたいのか、学問がしたいのか。そんなことを考えていたら、そもそも現代文解説の終着駅はどこにあるのかという疑問に突き当たる。もしかして、文章書きたいんじゃないのか?俺は。現代文問題を扱っているうちは、俺の授業は二次創作物に過ぎないのでは?コピーバンドのライブなんじゃないか?コミケの同人誌レベルなんじゃないか?

ハッキリ言って俺は物書きにずっとなりたかった。ただ、動機づけができなかった。絵や音楽よりずっと、文学を始めるのは困難なのだ。大義名分を持たずに、運命的な動機づけをせずに小説家になった人はいないと思われる。少なくとも、大家にはなれない。でも書きたい時は無性にある。だからこんなブログでもって自慰していたわけだ。

そして俺が音楽を辞めた時に悟ったことが、消極的動機でやったことは実を結ばないことだ。人生を投げ打ったとする。いや、投げ打ったと思う。それは言葉の鮮烈さと裏腹に、地味で緩やかな堕落だ。人生を悲観して博打に走れば必ず負ける。勝つ、という気概がないからだ。そうして精神を病む。やがて考えなくなる。考え続ければ、死ぬ。

 

あんな日々はもう嫌だ。絶対御免だ。御免だが、俺はどうしたいんだろう。