上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

芸術真髄

芸術とは詰まる所、なにであるのか。

これを問うたことのない人間には矢張り、生涯わからぬものであることは間違いない。衆愚である。しかしまた、衆愚を嗤う者もまた衆愚である。衆愚とは、時間が過去から未来へと流れ行くという近代意識の信者であるとともに、人間が継承し発展すべきという、近代意識そのものである。近代意識とはなにか。衆愚とはなにか。それは自然の産物であり、大いなる流れの、ほんの一部分に過ぎない。故に嗤うに値せず、嗤うこと即ち大いなる流れの一部分に過ぎない。彼らは真に愛すべき存在なのである。文明の発展が、人間の努力が、全て死を遠ざけるという一点に終始しているという事を発想せず、無限に向かって両手を広げる一般意志の、極めて自然な、風のような儚さでもって人間を歌う。

 

茶室。桃山時代という戦乱に於いて、利休の茶室は死と隣り合わせであった。一期一会とは、運命や自然、全ての偶然を必然として受諾する覚悟の言葉である。客人のために茶を点てるという、ただそれだけのことでさえ、死を眼前にすれば、忽ち人間を磨き、命を燃焼し、芸術へと昇華する。

天才の行いや考え、どういった発想であるかに着眼するのならば、辞めたほうがいい。何を為したか、何を考えたか、そんなことは天才自身でさえ決定することはできない。時代が要求した形に収まるというだけのことであって、彼らにはただ死を見つめたという共通項以外なんにも有りはしない。

 

僕たちには、生と、死、それ以外になんにも持たずに生まれ、なんにも持たずに死ぬということ以外、真実らしいことなど無いのだ。存在して、存在したことになり、そしていつか存在しなくなる。唯物論であろうが、観念論であろうが、死を眼前にすれば、これらもまた一元的に語られるべき真実の二面性に過ぎないことをただ悟るばかりである。僕らの存在もまた、一元的な真実の、生と死という二面性に翻弄されているに過ぎないということを悟るべし。

畢竟するに、世界は二元であり、真実は一元であるということを僕は言いたい。僕たちは二元を束ね一元的に語り真実とするのである。この所作を芸術と呼ぶ以外、ほかに適当な言葉があろうものか。死の中で暗中模索し、ようやく掴んだ手が、天使か悪魔かということでさえ、もはや何でもないことなのである。