上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

坂口安吾読後感

「人間が過つことに、何も問題はない。過った人間に問題がある。」

 

f:id:elpcy_congru:20171121224733j:image

上は僕自身の発明した言である。確かに言葉は人間を創造発見することに疑いが無いことを確認した。 

というのも、暫く前に「お前は坂口安吾のようなところがある。」と指摘され、随分前に読んだ 教祖の文学 ーー小林秀雄論ーー の頁を再び開いた。僕は小林秀雄ファンを自称してから幾年経つが、なるほど得心した。憧れだったのかも知れない。

このエッセイは小林秀雄の文学を否定し、安吾独自の文学鑑を叩きつける内容のものだが、僕は安吾小林秀雄に対する憧れの部分に強く感じる。彼は彼の為にそれを否定せざるを得ず、リングに上がらないボクサーを相手にしたというわけだ。生存、即ち闘争である。異論はない。小林秀雄に対する安吾の恐怖、これに打ち克たなければ彼の文学は空虚なものだっただろう。

実際、根っこのところで両者の文学はそう遠いところにない。初期小林秀雄の批評は安吾とそう変わらない破戒的なものだった。始まりの一言はこのエッセイを読んで最初の感想だ。小林的な目と、安吾的な身体を持った僕の、確定せざる幼さを熟考したい。

ここで僕が果たしてどちら寄りなのかということは問題にしていないことを明らかにしておこう。僕は僕だと言えればこの話自体必要ないのだが、それにはまだ幼すぎる。自己を類型化し考察する興味はあるが、そこは着地点ではない。自己の創造発見の為に言葉を操るのだ。それは行為によって確定されていく他はない。

「女のふくらはぎを見て雲の上から落っこったという久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何という相違だろう。これはただもう物体の落下にすぎん。 小林秀雄という落下する物体は、その孤独という詩魂によって、落下を自殺と見、虚無という詩を歌いだすことができるかも知れぬ。 然しまことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。」

これは僕のことだと指摘された。いやはや全く否定のしようがない。まさしく僕の話だ。少し前までの僕は小林の如き落下っぷりで、どちらのこともよく分かるが、僕の本分は花の為に墜落し、真実など何も知らぬまま、火中でまどろむことだ。それがdécadenceというのならそう呼べばいい。以前は失った花より良いものが無かっただけのことだ。小林もきっとそうである。

僕の今の課題はどれだけ死を遠ざけられるかというところに終始している。諦めずに生の実相を見つめられるか、つまり、どれだけ酔えるか。できるだけ永く酔う為に少しづつ、少しづつ口に運び、奇人だと悟られぬように、ギリギリを行く。いつでも致死量を飲み干せるように、緊張している。

僕は間違っているだろうか。しかし人間は間違うものだ。間違うことは人間にとって何も間違いではない。凡人、俗人、結構だ。僕は努めてそう在ろうとしている。最近は欅坂46を聴いてしんみりする夜もある。僕は僕の心をいつでも自由にさせていて、まるで無計画に生きている。

ところで世の破天荒な人々のほとんどはまるで計画的すぎて気味が悪い。彼の大真面目達は人間とは言えない。彼等は自身の心について無頓着すぎる。僕は人間の過ちについては寛容だが過った人間には渋面する。間違わなければならないと自らに課し計画的失敗を繰り返す人間が僕は嫌いだ。これがあの一言の真意である。届こうと、届かまいとに関わらず希望に手を伸ばす(上にか下にかも問わず)人間は美しい。僕は今恋人に接吻できるのならそれが全てだ。この猿人の如き我が心を大事にしている。