上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

ほとんど詩

インスピレーションはいつも、眠ろうとしたら急に降ってくるもの。と言いたいが、これは酒の勢いに任せたストレス解消かもしれない。

 

「観念の深度がそのまま作品の深度だが、そんなことはつゆとも考えず良い作品を書く人もいる。」と大体こんな具合の文章を読んだ。俺のことだと思った。そして俺が、幸か不幸か、太宰治に準ずる魂を持っていると評された。手元にあった「ヴィヨンの妻・桜桃」の短編集を捲った。

つまらなかった。後期太宰の良くも悪くも安定した文章は純なものが皆目無かった。よくできすぎていた。太宰を貶しているのではない。彼の文章の白眉は、俺が一番知っている。チョイスが悪いと言えばそれまでだ。

 

なんだか、これから自身が何をしでかそうとしているのか、わからなくなりそうになった。そしてこの一塊の、作家ならざる文豪の、世界を開帳する気持ちに至った。

 

 

雨上がりの白昼、水たまりで行水する雀を見たことがあるだろうか。一寸半程の身体を震わせて、飛沫を散らす一瞬に、貫く烈日、乱反射する光の中に立つ雀を見たことがあるだろうか。自転車で駆ける瞬間に飛び立つ黄金の、全ての調和の風景を。

 

黄昏を見つめる恋人の、心世に在らざることを知り、世に在らざる己とが、黄泉にて初めて邂逅しうることを知り、その喜びと切なさが、余りに途方も無いことを知ったとき、人事を失うことを知っているだろうか。

 

己の嘘を一つ一つ数え上げ、その度に皺を刻み、それでもなお嘘を重ねる愚鈍さを、ただ嘲笑うしかない人間のことを考えたことがあるだろうか。

 

或いは己も、世界の内にあるだろうか。

 

 

意味の無い瞬間を、永く覚えている。それしか書けない。心に留まったものしか書く気持ちにならない。或いは見たものしか書けないと思っていたが、こうして書いてみれば、それが何か得たいの知らない巨大なイメージになっているのを感じ取れた。それが収穫かな。お目汚し失礼した。

ものを書く理由

塾講師として働き始めて早数ヶ月が経った。最初はただ目の前の仕事の新鮮さと面白さに夢中になっていたある日、塾長に「将来的に塾長になるの?」と言われた。

「や、そこまではまだ」と答えた。

しかしまあ、講師だと月収が雀の涙なので30代でアルバイトを掛け持ちしている講師も珍しくないこの業界でキャリアアップしていかなければならないのは至極当然なわけだ。しかし、だ。俺は細々とした事務作業が極端に嫌いなのだ。提出物なんかは締切当日に出せば良い方。そんな野郎である。講師としては非常に刺激的な仕事だし向いてるとも感じるから、あと10数年はやっていくつもりではある。でも、どうしたいんだろう。

 

初めて会って挨拶をし、着席してから教科書を広げる前のトーク。リハ無しぶっつけ本番、解説と同時に初見の問題に目を通しながら、淀みないようにトークで間を繋いで解説を始める。この90分間のパフォーマンスが非常にスリリングなわけで、受験というRPGをマクロな視点で楽しんでいるわけではなく、一つ一つの戦闘をミクロに楽しんでいる段階なわけだが、果たして段階だからなのか、俺の本義がそこにあるからなのか。

やっぱり楽しいのは手応えのある現代文の解説。論理で文章を解体し唯一の回答を暴いていくのは快感。脳汁ハンパない。同時に不快なのが、回答のほうが非論理的である場合。予備校生時代に問題文の誤り、不出来を指摘して講師に疎まれたことがある。挙句、「問題を作る人、解説する人で回答が変わることもあるから」なんて最低な発言を初老の講師に言わせてしまった。もはや現代文の存在意義が揺らぐじゃん……。数学のように絶対の回答がない問題は大学院で議論させておけばいい(数学においても絶対が存在しないことはしばしばある)。

語句というのは、どれだけ厳正に選んでも意味は多岐に渡る。例えばパレットに赤と青の絵の具を出して、水で滲ませる。すると境界が溶け合って、紫のグラデーションが出来上がる。そこに葵だとか、藤紫だとか、より厳密な紫色を限定していく。それが文章を解く、ということだ。

 

話が飛んだ。要するに、俺は専門職としてこの仕事が好きなんじゃないか?管理職は向いていないんじゃないか?という疑念があるわけだ。より高度な問題を紐解いていくショーがしたい、ただそれだけなんじゃないか……?

講師として食えるレベルの一流になる選択肢もあるが、最終学歴が高卒の俺では今の職場を辞めたら次はないだろう。しかし今の職場ではその道はあり得ない。そしたらキャリアアップせざるを得ない。うーん……管理職……。

教育がしたいのか、学問がしたいのか。そんなことを考えていたら、そもそも現代文解説の終着駅はどこにあるのかという疑問に突き当たる。もしかして、文章書きたいんじゃないのか?俺は。現代文問題を扱っているうちは、俺の授業は二次創作物に過ぎないのでは?コピーバンドのライブなんじゃないか?コミケの同人誌レベルなんじゃないか?

ハッキリ言って俺は物書きにずっとなりたかった。ただ、動機づけができなかった。絵や音楽よりずっと、文学を始めるのは困難なのだ。大義名分を持たずに、運命的な動機づけをせずに小説家になった人はいないと思われる。少なくとも、大家にはなれない。でも書きたい時は無性にある。だからこんなブログでもって自慰していたわけだ。

そして俺が音楽を辞めた時に悟ったことが、消極的動機でやったことは実を結ばないことだ。人生を投げ打ったとする。いや、投げ打ったと思う。それは言葉の鮮烈さと裏腹に、地味で緩やかな堕落だ。人生を悲観して博打に走れば必ず負ける。勝つ、という気概がないからだ。そうして精神を病む。やがて考えなくなる。考え続ければ、死ぬ。

 

あんな日々はもう嫌だ。絶対御免だ。御免だが、俺はどうしたいんだろう。

Sympathy for the devil

ブラックメタルを漁って見たものの、やっぱりなんか違和感は拭えないねえ。ブラストビートが玩具っぽくて笑っちゃうのが大きい。籠もったノイズギターは好きなのでそれでイケる感じ。Burzumのそれは特にレンジがあっていい。

 

 

ま、それはさて置き。ブラックメタルと言ったら悪魔崇拝がテーマなんだが。

…………えっ今更?

感がまたもや拭えない。そもそも原義的にロックミュージックはそういったものと近しいし、何より相変わらずテーマを掲げて表現の幅を自ら狭めるのはアーティストとして自殺行為なのでは。今までメタルを嫌疑してきたのも、特にそういったコミック色が強いからというのもあったからだ。むしろ大槻ケンヂのほうがメタルらしいメタルをやってたりやってなかったりするのである。逆説的に。

 

閑話休題悪魔崇拝の話に戻るわけだが、芸術として根本的な話をすれば、それが表現できていなければブラックメタルも童謡以下である。で、ばっさりと切り捨てるができているバンドはいない。こんなチープな音で、デスボイスで、直接的な表現で、魑魅魍魎だって召喚できるものか!!とモヤモヤしてたまらなくなったので悪魔に魅入られたホンモノを紹介していく。

 

 

https://youtu.be/Yd60nI4sa9A

 

早速ロバート・ジョンソンのクロスロードとは俺も芸がないとは思う。十字路で悪魔と契約したという有名なあの曲。別にそういう背景だから載せたわけではなくて、音が完全にイかれてるから載せた。俺はこれ以上に訳の分からない曲をそう多くは知らないし、形而上のなにかに触れるような真髄は生楽器でないと辿り着かないのではないかと思わせる。初めてこれを聴いた18歳の時、俺はなんだかよくわからなかった。これから初めて聴く人も、なんだかわからないだろう。これは音楽に精通してるかどうかとは別のところに原因がある。

 

 

https://youtu.be/RH0Po7LMqOY

 

ビリー・ホリディ。俺が知る中で最も深く、強く、羽のように軽い歌声のシンガーである。もっと陰惨で有名な曲はいくらでもあるんだが、むしろ長調のほうがコントラストが効いて彼女の薄幸な感じを際立たせるように思う。いつも聴くたびにセイレーンの歌に捕らえられた船乗りのような心地になる。パーカーが鳥なら彼女は人魚だ。

 

 

https://youtu.be/wrWQndgX1QU

 

ビル・エヴァンス。彼の即興が「ゾーン」に入るといつも前のめりで食い気味のテンポになる。とにかく早い。生き急いでいるような印象を受けるのである。彼はいつも俯いて演奏するがもちろん鍵盤なんか見ていない。足元の先にあるのは生か死か、いずれにせよ、こんな明るい曲でも緊迫したプレッシャーがどこかにあるのである。

 

 

https://youtu.be/3DEnwUAzPG4

 

マイブラは、堕落の底で見える世界。希薄な存在を繋ぐように痛みと快楽を貪るうちに、壊れていった世界の心象風景である。ノイズの層が作り出す愛なき世界はただただ何の意味も目的もなく標榜する。

Autumn Leaves

や、お久しぶり。随分間が空いてしまったが、どうも俺は友人から催促されないとブログの存在を忘れてしまうらしい。今夜はなんだか眠れなくて、紫煙を燻らせていたらこんな時間になってしまった。腹が減っていよいよ眠れない。すると、ほとんどの人がそうであるように、取り留めもなく様々な考えが浮かんでは消えるものだ。俺のは考えというには物足らない、イメージのかけらでしかないが。

 

例えばそれは、ロックンロール。誰にも聞こえない。

コーヒー。盗まれた星空は堕落の味。

セックス。貪り合うほど満たされない。

芸術。服毒したらそれでおしまい。

青春。その大半は倦怠。

 

新宿のネオンは、人間の命そのものの輝きではないかしら。おそらく首都直下型地震が起きるまで、絶えず輝き続けるだろう。

 

今度はなんとなく聖書を思い出した。来たる日に、全ては彼方へと消え失せるらしい。当たり前だ。太陽だって死ぬ日が来る。もちろん、新宿もいつか死ぬ。

そして、どれほど完全な信仰や知識、森羅万象に通じていても神の御前では一部分。最も大事なのは愛。とかなんとか、そんな感じの説教を思い出した。

ごもっともである。要するに、あの世に金は持ってけないという話だ。キリスト教でいう愛とはもちろん隣人愛のことだから、神さえお見過ごしになさる天災で最愛の人を失ったとしても神を責めるには値しない。神からすれば、通俗的な愛は枝葉のように脆いものなのかもしれない。

俺たち一般からすれば意識高い系の愛はご遠慮願いたいわけで、自ら望んで胸を焼き、絶望の甘露に惑溺する。ゲーテの摩天楼とニーチェの狂気。神への反旗ねえ、人類みなドンキホーテだ。

まあ考えても、考えなくても、やることは変わらない。萌え出づるを愛で、散りゆくを嘆く。象にだってできる。

炭酸

以前から毎回ブログを読んでいただいてる友人から

 

「いつもタイトルから考えてる」という回と「最後にタイトルをつける」という回があって、その日その日で言ってること違うのが君らしい。

 

と言われまして。はて、そんなこと書いたかしらと不思議な気持ちになった。一応、最近はタイトルだけ付けて書き始めてる(?)よ。

まあ、言ってることがいい加減なのは実人物が普段からその様子なので致し方無し。それはさておき、前回のを読み返して思ったのが、どうも文章に粘りがなくなったようだ。

粘りというか、炭酸のようなものが無い。熱気いっぱいに書き殴った文章がファンはお好みのようだから、やや申し訳ない。実際、喜怒哀楽が希薄になった。怒りは特に持続しない。しばらく気の抜けたコーラのような日々を送っているのである。

 

まあ、これはこれで気に入っている。無理矢理に感情をいじくるのは愚かだし、胡座で言葉や音と戯れる贅沢をふんだんに味わっているわけだ。この空っ風のような文章だって、あんまり内容ばかり盛りだくさんで、読了してみれば後には何も残らないような駄文より幾分マシのように思う。

 

じゃあ、少し話を膨らまして俺のここ最近の知見、とまでは言わなくてもボンヤリ考えてることを話そうか。

 

文章の価値や魅力は、人間のそれと変わらないものだと思っている。その基準は人それぞれ持っていると思うが、俺はそれがユーモアにあるんじゃないかと思うようになった。ギャグセンスとか茶目っ気とかにその人の性質を見る。性質というか、理知の所在がわかる。

 

逆に内容なんてものは嫌いだ。難しい本は読みたくないし、官僚だから偉いとも思わない。内容至上主義の世の中は、そぞろ寒いと思わないか。

「裸になってみてもまだ何か着ているような気がするんだ」という歌詞が一昔前のバンドの歌詞にあったよ。いや、昨晩は友人にあまりに小難しい言葉をまくし立てられたので、少しチクチク突いてみたというか、これが返答である。ご容赦。

 

それじゃーね。

恋破れて山河あり

文筆家を志す友人の原稿をいただいた。これがなかなか面白くて、勝手に校正などしてるうちにムラムラと、文章書きたいなぁと思いブログをまた新しく始めた次第。

年も明けたばかりだし、古い衣を脱ぎ去り新しく何か始めようとするのは良いことなのではないかしら。文章を書く時はきまって無音。集中しているのが常だけど、趣向を変えてジャズなんか聴きながら書き出している。これも一興なのかな。

 

さて。このままルイ・アームストロングについて書き出しても良いのだけれど、それではこのブログを所望した友人がガッカリするだろうからね。

 

 

「国破れて山河あり」と言う。まあ情景は浮かぶのだが、スケールが大きすぎてしっくりくる人はいないんじゃなかろうか。

「恋破れて山河あり」

一字変えただけで傷心旅行のようになる。なんだか可愛らしくてグッと身近に感じられるので、勝手に変えてしまおう。そのままそこの東屋に腰を下ろすというのも、悪くはない。

しかし、国と恋とを入れ替えるだけで山河のイメージそのものが変化するのは面白い。

前者は国だったものーーー瓦礫だの、生活の跡。巨大な廃墟を物ともしない自然の圧倒。ドローンカメラで撮影したようなパノラマが拡がっているのだが、後者はただの田舎道である。

まあ俺が何となく思いついた言葉がこの名言に優るはずもないのだが、これはこれでアリだなんて思ってる。

退屈なロードムービーのような情緒でいいじゃん。傷心旅行にきたOLが独りごちて苦笑している様が目に浮かぶ。懐石料理より実家の味噌汁が食いてえな、とか考えているかもしれない。奥田民生が聴きたくなってYouTubeで「さすらい」をかける。ロクに観光もせずビールを飲んで過ごす。

小説になるのはどちらかといえば「恋破れて山河あり」かも知れない。国破れて〜は一発ギャグのような出オチ感があって拡がらない気も………や、調子に乗った。

 

いい加減なことを言えばなんにでも「山河あり」と付ければ救われるんじゃないかという気がしてきた。苦笑

では。

クリスチャンよりセバスチャン

 

俺の部屋にカーテンはある。が、窓についてない。正しくは窓につけていない。煙草のヤニで黄ばんだカーテンを見てなんとなく洗ってみたが、つけるのが面倒くさくなって床に放り投げたまま二週間経った。日差しが恨めしい時は雨戸を閉めて、暗闇を愉しむ。一条の光さえない部屋は目が慣れる事もなく己の手先さえ見えず、ほとんど蔵の中のようになる。俺はようやく安らぎを覚えて、色々と夢想しながら眠ることができる……。

 

 

肉親と憎しみは少し似てる。うちの祖母は今年八十歳になり車椅子デビューもして我が家で共生することになって一月余、弱っているのか甘えているのか、頼られるから俺は真に甲斐甲斐しく世話をしてやってしまった。こうして人を助けてやってロクな目にあった試しがない。彼女から被った被害の数々を並べたらそれだけで短編一本書けそうなものだが、それを差し置いても彼女の醜悪な人間性には愛想も尽きた。贅沢病の傲慢なレイシスト、国家犯罪級の金銭へのだらしなさ。他人の悪口を酒のアテにするのが趣味でおまけに情が激しく騒々しい。食事の際には品のなさが際立つ。ハッキリ言って百姓である。あまりに馬鹿を通り越して愚か者であるから表に出すのが恥ずかしい。

……これを書いていたら丁度今しがた祖母がやってきて直ぐに病院に電話しなければならん、電話貸せと言いにきた。何でもないつまらぬ用紙を手にして。こちらが何を説明しても興奮していいから貸せとしか言わないのだから好きにやらせたら、本当になんでもない事が彼女にも分かったようで、今度はうなだれて涙ながらにお前達がいなくちゃ何にもできねえだの調子のいい事を言うものだから、すっかりシラけた。こいつはどうすれば相手が強く出れないのか熟知している食わせ者なのだ。相手に喋る暇を与えずに五分十分と喋り続けて根負けさせることなど朝飯前。もういい。シラけた。

 

 

「劇団に入ったはいいけど、馬鹿すぎて台本の漢字が読めなくて。本読めって言われたの。それで人間失格読んだら、もう面白くて面白くて。ゲラゲラ笑っちゃったよ。」

「あれ笑う本なんですか?」

「笑う本だよ。」

エンケン。昼間のワイドショーの一節。彼に学が無いのはどうやら事実のようだし、あながち学があるから笑い所がわかる、というものでもないらしい。興味深く思ったので憶えていた。太宰作品の真価というのはかえって知識人には難解なのかもしれないが、素人が一読して了解するほど単純かというと何とも言えないところがある。才能だとかセンスなんだろう。素人だからこそ、というのも一理はあるが。

読書家のほうが本との距離感を掴みにくいこともままある。交際だって好きであればあるほど付かず離れずが難しいものだ。太宰治は俯瞰で読むのが正しい。そういう事もあるのかもしれないが、エンケンの鋭い眼光は脳裏に焼き付いた。

 

 

ここまで書いて窓を開けてみたら日が落ちかけていた。橙と紺が滲む黄昏に、廃品回収車のスピーカー音がよく溶ける。少し頭痛がして、掌を頬骨からおでこにかけて軽く押しつけた。眉の下あたりを揉むようにして頭蓋骨の形を感じた。俺はしっちゃかめっちゃかな文章に一本紐を通すために最初にタイトルを決めるから、さあどうしようかと結局考える羽目になる。

そもそも、元カノにしっかりしろと言われたのをずっと気掛かりにして、取り敢えずカーテンなんか洗ってみたのである。軽く掃除もしてしまった。本当に軽く。別に、言われたからハイそうですかと遵守する気はさらさらない。カーテンつけてないし。幸福そのものに、幸福になって欲しいだなんて言われるのは随分皮肉だと思うのだ。反面、彼女が純に思ったことだと信じるから何ヶ月も気にし続けている。小さい男だ。可笑しくなってきた。そうして床に投げたカーテンを見て、クリスチャンよりセバスチャンと思った。