上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

美的観念

美学は個人のアイデンティティといえる。作品の趣味嗜好が個人としての本質を露わにするために、この種の話題のために知識の蒐集に苦心する愛すべき痴れ者もいるほどに(俺もこの手の話題になると相当の嘘吐きなんだけど)。

別に作品に限らなくとも顔の好みにしたって似たような話だと思う。その人間の精神活動の形態は、好む線に顕れる。

観念者は直線を、自然者は曲線を愛す傾向にある。根拠は直感。

 

とまあ。今回扱う題材のわりには趣味的にブログを更新していきたいなと考えているので、読者の方には居住まいを正すことなく胡座で読むことを推奨する。可能な限りナウでポップにイケイケを目指したいので。マジで。

 

閑話休題

 

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誰もが知ってる有名な絵である。好きだから載せた。俺が今回特に言いたいことは「単一的な美は存在しない」ということだ。

美学には必ずストーリーがある。美術は直感で恋する。直感の背後にはストーリーがあって理性的な判断の積算がある。

 

この絵、夕刻であることは明らかである。事実夕刻であったかとか解釈がどうとか白々しい話はうっちゃって俺の美観にとって重要なのは「夕刻であること」なのだ。この要素一つ裏切られたら俺の美観がyesと言わないーーーそういう思い込みのようなものを全肯定する。

 

微妙な色彩の感覚を言語化しきることはできないが、少なからず言語的解釈からは逃れられないのも又事実である。

「夏の花が窮屈そうに頭をもたげる黄昏」

この言語化は俺の頽廃趣味が作用している。頽廃趣味は実体験、芸術体験の総合ないし理想化である。

作品が俺の積算を、ストーリーを内包する故にアイデンティティになる。

 

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 ニケ。これは巨大かつ複雑な印象を受ける。

滑らかな肌は石としての意味をとうに失って清らかな無機物と化している。天に向かって突き出された胸から足先までの曲線の絶妙であること。永い年月と共に失われた頭と腕。作品自体がストーリーを持つ稀有な例である。

運命とも呼ぶべきそれは、共感には余りに遠く純粋な鑑賞を余儀なくされる形而上の物である。