上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

絵画貧乏

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大した資産もないのに高級外車の為に生活費を削り、全てを投げ出す人種がいて、それを車貧乏という。この時勢なかなか聞かなくなったが。対して絵画貧乏とは古今東西めったに聞かない。

車なら虚栄にもなるだろうが、絵画となれば美に対する執着がより多く割合を占めるだろう。人間の多数(といっても全体の少数だが)は、美には金を払わねど虚栄には金を惜しまぬ性であると察する。

己にも心酔する絵画がないわけではないが、例えばそれを五百万と値が付いていたとして、辛苦の末にそれを入手することは不可能ではない。しかしそれは非現実的であり、あまりに犠牲が多すぎるがために習俗に倣って考え無しに美を放棄する。常識的と言えば常識的だが、人が狂うのはかくも困難かと思えば僅かに震撼を禁じ得ない。

多く人々にとって美は茶である。午後の一服の伴侶にすぎぬ。絶世の美酒とはなり得ぬ。茶のために五百万を投じる阿呆はおらぬ。美は無為であるために美であり、五百万は大抵の人々にとって有為であるから。

 

では、と煩悶するのだが。有為な人生というものは終ぞ見聞に至らぬ。あのナポレオンでさえ、その栄誉は「己はフランス人である」という自覚無しには無に等しい。栄誉は報酬であり、報酬はその自覚に対して支払われ、裏打する。そこでは認知するものとされるものの交歓があり、有為なものとして画す。自覚、行為、交歓の果てに全ては有為となるので見聞による理解には程遠い。それが仕事というものだ。

 

無為の美に対して人はどう思う。愛するか、愛さざるか。究極、これではないのか。多く美は教養の為に滋養となろう。慰めとなろう。そういった人を己は深く愛す。非常に温和な人々である。対して己は非常に罪深い発想の持ち主であることを前以て告白しておきたい。

五百万の絵画を購入することに比べたら人は易々と結婚することを思うのだ。愛すればこそ五百万なぞ安いものであるはずなのに、永い目で見れば女子供、五百万では済まぬ。誠に失礼な話だと思うが、事実男にとって結婚とはそういったものである。けれど驚いたことに多くの男が案じるのは「愛しているか、どうか」ではない。「安んじているか、どうか」だ。これは男に限った話でもない。少なくとも己が少ない人生経験で見聞してきたのはそういった風俗であり、己はそういった男女の股から出世したのだ。

 

安楽を愛と呼び安んじる愚鈍さ、炬燵の如きぬくみ。別段これを否定するつもりもないし、己はそこで埋没していたいという羨望もあるにはあった。気高き愛というのは、悟するはおろか、目を潰す。日陰者には尚のこと、痛みを知るなら殊更然り。

俗悪な例えだと覚ゆるがーーー五百万の絵画を買うことは、愛である。全てを投げ打つことと悟する。眺るを至上とする精神である。美を見出し、眺るを至上とすることは、今己に解る愛の一形態なのだろうと密かに思う。