上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

表現に関する個人的ハウツー

当ブログは一体どの層の読者にウケているのか俺にも見当がつかないが、昨今たまに人と会うと「ブログ読んでるよ。」などと思いもよらぬ出所からチラホラ耳にするので更新を頻繁にしようと思う。ツイッターをやってない方はわざわざ検索してくださるようで、更新されてないのは申し訳ない。飽き性の俺がここまでブログを続けられてきたのは読者諸君のおかげである。たまの暇つぶしに文章に親しむことで、いずれ何か実を結べば僥倖ということで。ブログに対する感想をいただけるのは恐悦であるが、その際に「理系の文章だよね。」と良く言われる。理系の文章。はてな。モヤモヤする。

 

そもそも言葉にも理は備わっている。音にも理があるように、美しい旋律は必ず音楽理論に則っているといってよい。また、重複した季語は歌として破綻する。つまり、美文と理文はそもそも一致するというのが俺の考える「理文」である。しかしながら俺の文章には理が備わっているとはどうしても思えない。子供の叩くピアノさながら、ムラッ気ふんだん、気分と勢いの奔流に過ぎない。それとも俺はモーツァルトの卵だと言われているのか。参ったな。いや、これは俺がひねくれているからこう言ってるのだけどもね。

要するに「考えて文章を書くタイプだよね」と大雑把な評を頂いているということはわかってるのだが、俺は頭でっかちらしいので逐一詳細に突き詰めないと納得がいかない性分なのを許していただきたい。

しかしながら俺は本当に考えて書いてるつもりなどない。考えて書いてこのクオリティなら己に失望して二度と文章は書かない。そもそもこのブログという自由形式を崩したくはない。俺がただ心掛けているのは、使い慣れない道具は使わないという一点のみである。

 

職人はどの道に於いても道具が手足の一部とならなければならない。ミュージシャンであればギターであったり、大工であれば鉋であったり。数ミリのズレも許されない大工仕事を職人は感覚でやってのける。これを文章に置き換えた場合、文章の構成やリズム、即ち「理」である。感覚の鋭さとは理を即座に会得することであって、おそらく読者諸君が想像しているような感≠理の二律背反は根底から間違っている。天才とは理を操る者であり、理に操られる者こそが凡才なのである。

俺はそういった考えであるので、所謂「考えて書くタイプ」というのは使い慣れない道具を駆使してどうにかこうにか形にしている人と言われてるように感じてしまう。理文を感覚で書けているというのなら、その賛辞を受け取るに値しないことは承知している。だんだん文才があると言われているのか、無いと言われているのか混乱してくる。ただ俺は土台を作る前に屋根を作るような真似はしないというだけだ。

 

 

もう一つ、理系と言われる原因と思われるのは俺が物をはっきり書きすぎているからか。

昨今は文章にボカシが多い。ネットでたまに見かけるあの飄々とした文章の書き方には反吐がでる。なんだかまるで、百点の答案用紙をいつも忍ばせて、偶然を装って他人に見てもらおうとしながら明後日の方向を見てるかのような態度が醜悪極まる。もう一度言うが醜悪である。俺なら百点の答案をラミネートして背広に貼っつけて歩くね。ボカシは飽くまで技術の一つである。語り得ないものを現すのに使われるべきである。あのCでもC#でもない中途半端な音だけで構成されたような文章の何がいいのかサッパリわからん。B級サイケでも聴いてるような気分だ。以前からジミヘン嫌いを公言しているのも以上の理由による。

とにかく、他人に伝わらない作品に価値はない。明郎であるべきだ。誤解しないで欲しいのは俺はブルーノートを批判してはいない。正しい旋律の中でチョーキングは最も人間の歪みを表現してくれるのである。