上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

座間の連続殺人と自殺に関連した夢想的なエッセイ

何か悪いことやって

捕まってしまおうかな

欲しいものは諦めてる

持ってるものにも

飽きてきた

どうにもならんし

 

どうにかなるかな

金持ったら変わるかな

誰かを守る為に変われるかな

すぐに忘れるわこんなこと

 

https://youtu.be/dqiEz1GQyIQ

 

ロックバンド、くるりの曲「GUILTY」の歌詞全文である。2002年発売のアルバム収録曲だが、最近はこの曲ばっかりずっと聴いてる。スタジオ音源があれば良かったのだがこれで勘弁願いたい。俺はこの曲名が「GUILTY」ということに着目して文章を綴ろうと思い立ったのだが、実を言うと寝る前にやろうとしたゲームがメンテナンス中だったのでブログでも書いて寝ようと思っただけなんだけどね。てへ。

「欲せよ。さすれば与えられん。」と聖書に書かれて久しいが、欲することの困難さを常日頃思うがために、この歌詞は俺のハートにビンビンくる。そもそも人間、欲しいものなぞ滅多に無い。実用的な物。華美なもの。要するに潤沢。皆々欲するだろうが、これらは言ってしまえば「欲しいものを欲する為に必要な条件」だと思っている。第一に生存、第二に理想である為に、第一条件を満たすことに執着して人生は終わる。

「どうせみんな死ぬ」をオチに使ったツイートをよくネット上見かけるようになったが、嫌いじゃない。どうせみんな死ぬのだ。まあ、言ってしまえば中学生でも知ってるような当然のことを今更語り直すのも興がないな、くらいには思うが。しかし彼らがmemento moriを意識しているかどうかなんぞ、生産性の無いことを突っ込んで徒労する趣味はないものの、そもそもmemento moriがナンセンスだと俺は主張したかったりする。

今旬の話題、自殺の話をしよう。自殺とは美学である。これはmemento moriに対してマウントを取る行為であり、人間の意識の勝利を確固とする先制攻撃だ。連日ニュースでやってる事件の自殺願望者達がただただ逃避的な似非自殺者であるということ、犯人に死の美学が無いこと、まるで語るに値しない。ニュース番組は話題性に振り回される他律的でくだらないものだと改めて認めた次第だ。しかし座間のこの事件、リアリティは強く印象にある。現代的な人間の終末を感じさせるものがある。おそらく犯人も被害者も等しく空想的な人間であり、報道ではなんら意思らしい意思を感じなかった。浮世に流された人間の末路であり、ほとんど人形遊びのようだと俺には見える。加害者も被害者も、欲して殺し殺されたようには如何しても見えない。そのリアリティの無さに逆説的にリアリティがある。

これは代替行為なのだ。欲することを忘れた人間の、生存を賭けた代替行為だ。彼らは死を欲するどころか、むしろ昆虫の如き生存への執着が互いにあって、かえって死を夢想するという質のものだ。俺は空想的であることが正に罪であるとこの身で感じている。その終末がこれなのだ。冒頭で拝借した「GUILTY」の歌詞は、この意味で俺にとって真である。

しかしこの代替行為、ほとんど人間はこれのために生きている。娯楽が栄えるというのは、生存という第一条件をクリアしたがためだ。娯楽とは代替行為である。人間本来が目指すべき理想を欲することの困難さがアミューズメントの繁栄を約束しているのだ。本質的に俺達はあの事件の当事者達と何が違うのか、俺には分からない。だから物珍しそうに、他人事のように語るコメンテーター達が俺にはかえって物珍しく見える。

つくづく俺は凡人であると痛感する。memento moriはナンセンスだと先ほど言ったのだから。これを所有し自殺するものは真の意味で行為者である。それは認める。ただ、行為が現実の前に砕け散り、流れ流されて生きてきた俺にとっては、かつてのmemento moriの桟薄さを呪い、荒涼たる現実に恐怖し、人形に憐憫を寄せる。ただそれだけのことだ。