上海ベイベと香港ガーデン

自堕落な元バンドマンの独り言集。

書を読もう 家に帰ろう

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この「書を捨てよ 町へ出よう」は今日未だに一部熱狂的な支持のあるアングラ劇作家、寺山修司の作品である。二十歳前後の時分に彼の作品群をいくつか人並には知見したのだが、一言で言えば彼のアヴァンギャルドな表現は特殊(すぎる)な世界感のメタとして現実を突きつける、メタ芸術的なものである。「田園に死す」では恐山の舞台セットが崩壊し突如新宿が出現する演出などファンキーと呼ぶしかない下品さに一興の余地があると言えばある(多分)。彼のファンの多くはその矮小な優越感……サブカル人特有の自己満足感を保有するために観賞するかのような態度も否めないので、俺としては冷笑しつつ興がる程度の観賞をオススメする。

ここから幾原監督の「少女革命ウテナ」など熱心に蒐集した御自慢の無駄知識へと風呂敷を広げられなくもないのだが、例によってこのブログの書き出しはいつも迂遠な方法を採用している。寺山修司なんぞ犬さえ食いやしない不味い話題を長々と語る気は無い。

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この「書を捨てよ 町へ出よう」に似たメッセージは未だにあらゆる作品の中に散見する。「NHKにようこそ!」なんかもそんな感じか。少し古い気はするけど。俺はこの「書を捨てよ 町へ出よう」系のメッセージと出会う度に苦虫を噛み潰したような気持ちになるのだ。

要するに「脱オタしようぜ!」ということが言いたいわけだ。思想生活に倦んでリアリズムに恋し、童貞捨てようぜ!と意気揚々町へ出るわけだ。わかる。その態度に対して反対ではない。むしろ人生の過程でそういった経験をして来なかった人間はどこか薄味だと思う。ただ、俺はその青臭さに渋面しているのだ。

真実はいつもメタ的自我として対岸に生ずる。だからこうした態度は努力の賜物であり、幾分かの賞賛には値する。しかし飽くまでこれは過程のストーリーに過ぎず、せいぜい人生訓のようなものにしかならない。俺にとって作品と呼べるかどうかの判定が微妙になってしまうのである。

俺にとって主たる問題はその後の話。俺がそれを覚して行動してから早10年経つが、せいぜい煙草と酒の味を覚えたのが関の山。それまでの思想生活を棄てること、脱オタすることは文字通りの自暴自棄だ。当時どっぷり文学少年だった俺は思想生活の全てを賭けた初恋が物の見事に砕け散ったので、そもそも自我も何も失っていたわけだが。

まあこの10年、乱痴気と苦悩の連続だった。それなりに破茶滅茶しないと生きてる感じがしなかったので飲んだくれたり川にダイブしてみたりした青春時代だったけども、だからどうということもない。気狂いと揶揄されたりもしたが、事実気狂いなのだ。俺の途切れた自意識は動物レベルで漸く留まっているに過ぎず、行動によって強く判を押してみたところでインクはつかない。

「書を捨てよ 町へ出よう」。だからなんだ。意識の自重に耐えきれず、積極的逃避を訴えてるだけじゃないか。だいたい、お前ら作家風情は不誠実にも程がある。意識外の現実に恋するのは良い。ならばお前らはリアリズムというものを欠けらでも書いたか。芭蕉の一句に劣る駄文の数々、恥を知れ。

俺は俺自身を守るためにこの主張だけは通さなければならないのだが、書を読め。家を守れ。思想なんて立派な宮殿でなくても良いから、帰るべき自我だけは持たなくては、愛するはおろか楽しむことも見つめ合うことさえも不能になる。人生に良しも悪しもない、人生であれ。自我が自我たることは全ての資本である。